きのしたマルワイ
農園のご紹介
きのしたマルワイ
農園のご紹介
南アルプスと中央アルプスの谷合に位置する、長野県飯田市の西部山麓地帯にきのしたマルワイ農園はあります。
東京スカイツリーよりも高い標高660mの場所に位置しているので、朝は眼下に雲海が広がり、昼はアルプスの山脈の稜線が映え、夜は手を伸ばせば掴めそうな満点の星空を見ることができます。また山麓にはカタクリの花が群生しています。
創業(小農)の精神
当園の系譜をたどると江戸中期・享保年間にまで遡る。定かでないが系譜10代目までは譜代大名の領地で百姓をしていたと思われる。その後明治19年(1886年)系譜11代目に誕生した娘は、齢3歳で両親を亡くした。不憫に思った村人は後見人となり彼女を育てた。やがて入婿を迎え、家業再興に夫婦で取り組んだ。自然の恵みに感謝し、神仏に祈りを捧げた。そして子宝に恵まれ、9人の子供を授かった。
昭和16年(1941年)系譜12代目となった園主は、殖産興業の一つであった養蚕農家となり、家族は蚕室の片隅で寝泊まりし、お蚕様を育てた。裕福でなかったので耕作に必要な農具は創意と工夫、改善で手作りした。そこには生活のための生産があった。一方小さな農家(小農)同志で援け合う「結いの心」の風土があった。
昭和45年(1970年)系譜13代目となった園主は、農協に勤めながら政府推奨の果実生産へと栽培品目を変えた。平成の終わりまで国の方針実現に寄与してきた。
ただ、平成30年(2018年)系譜14代目となった園主は、毎年旅人が農園にくだものを買い求めに立ち寄るようになったのを機に直売へと販路を拡げるようになり、これが自立への始まりとなった。
次代を担う者たちへ、先人の生き様から学べ。先人は様々(百)な仕事と知恵を生み出す(姓)者であった。
そこには協同の精神で農(みのり)を生業としてきた姿がある。その本質は共創であり、共存共栄である。
そして当園は果物を求めに来られるお客様へは幸せで豊かな気持ちになって頂けるよう素材本来の味と共に、地域風土にあった食(風土食)が心身共に健やかな身体つくりになること(身土不二)を伝えます。
気候や時代、社会が変わろうとも人々の善きものを求める心は変わらない。美味しさを創り出す土壌は生きものたちとの共生、自然循環で成り立っている。土壌の地力を高めることが明日への土台となる。
農園のあゆみ
1730年
1946年
戦後農地改革により自作農となった。
主に「お蚕様」(養蚕)を営む
1963年
バナナの輸入自由化開始
その後、年を追うごとにオレンジ、リンゴ、ブドウ、パイナップル、キウイフルーツなど輸入果実が増える
1970年
減反政策がはじまる
水田は干し柿、桑畑は日本ナシの苗木を植え、栽培品目を変える
1983年
生産収量を上げ、作業効率を高めるためリンゴのワイ化栽培をはじめる
柿干場を建設する
1989年
1998年
コメの輸入自由化がはじまった。付加価値づくりのためジュースの加工を始める。
その後ジャム、コンポート、果実酒など加工品を増やす
2012年
2019年
個人名を改め「きのしたマルワイ農園」と命名
一家で楽しくワイワイしながらフルーツ栽培をしていることから命名
2020年
農園の情報発信のためホームページを開設
2023年
品質を高めるため果実内部まで選別できるセンサー付き自動選果機を導入
2024年
お客様とのご縁やつながりを大切にするため公式LINEアカウントを開設
生産収量の安定化のため柿干場用ハウスを購入
農園の様子はこちらから
家族みんなで丹精込めて作っています
きのした家のご紹介
番頭 まさつぐ
園主のサポーター。
日本協同組合連携機構認定の食育ソムリエ。
園主 ゆうこ
ハッスル母ちゃん。女性農業士。
次期園主 よしたか
周りから頼られる存在。
生涯パートナー募集中。
一生懸命ていねいに
育てます
お手元に届いた時が一番美味しい食べごろの状態となるよう、生育状態をしっかり見極めて収穫しています。
選別も機械ではなく手で行い、痛まないよう丁寧に扱っています。
収穫して終わりではなく、来年の収穫までの間、栽培管理も大切になります。施肥やせん定、摘果などの管理を年間通じて行うことにより、来年もまたおいしいフルーツが実ります。
丹精込めてお手入れをし
最高に美味しいフルーツを
あなたにお届けします
きのしたマルワイ農園へのアクセス
お車でお越しの際は、中央自動車道 飯田インターチェンジから約2キロ
中央高速バスでお越しの際は、中央自動車道 中央高速バス伊賀良バス停からタクシーで約5分